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【アラベスク】  第14章 kiss



第2節 本気の証 [10]




 美鶴の前では見せない姿。決して見せたくない姿。
 柔らかな笑みも、冷静な頭脳もそこには無い。
 我を忘れた瑠駆真を、美鶴は以前にも見た事はある。だが、それでもメリエムと対峙する瑠駆真の姿に、美鶴は言葉を失った。
 怖い。
 同時に、こうも思う。
 申し訳ない。
 瑠駆真にこのような行動をさせてしまったのは、自分?
 瑠駆真だけじゃない。
 ギュッと胸元を握る。
 聡にだって。
 途端、美鶴はメリエムの腕の中からすり抜け、玄関を目指して走り出す。
「ミツルッ」
 メリエムの声は聞こえていた。
「美鶴っ!」
 瑠駆真の叫び声も耳には届いていた。だが美鶴はそのまま振り返りもせずに飛び出すと、マンションの外を目指してひたすらに走った。
 瑠駆真に対する恐怖と、された行為への羞恥と、暗澹(あんたん)
 外の空気は澄んでいて、冷たくて鋭い。
 惨めだ。
 雪の止んだ空は、青空すら覗かせている。心とは反対に晴れ始める空の下を走った。
 瑠駆真、最初っからあんな事をするつもりで私を部屋へ入れたのだろうか? だったら聡も?
 いや、聡は違う。あれは成り行きだ。マンションの入り口で喚かれるのが嫌だったから仕方なく部屋へ入れただけ。
 だが、美鶴の耳に、瑠駆真の低い声が響く。

「君の部屋以外に、場所は無い」

 瑠駆真は、聡は私の部屋にいると予想した。携帯の写真について公衆の面前で問い詰めれば、私は必ず嫌がる。だから問い詰める為に私の部屋に入り込んでいるはずだと、瑠駆真は推測した。そして的中した。
 聡も、最初から私の部屋に入り込むつもりで? だからマンションの入り口であんなに喚いたりしたの?
 嘘だ。そんなハズはない。聡も瑠駆真も、あんな事をするつもりではなかったはずだ。
 そう思いたいのはなぜだろう? 瑠駆真も聡も、そんな人間ではないと、思いたいのはなぜか?
 あんな事をされたのに、どうしてだか悪いのは自分であるかのような気になる。
 惨めだ。
 聡に対しても瑠駆真に対しても抵抗しきれなかったという事実も惨めだが、それよりも、あそこまで迫られながらもはっきりと自分の心の内を告げる事ができなかった自分自身が、一番惨めに思えた。
 こんな事が霞流さんに知られたら、何を言われるのだろう?
 薄髪をはためかせて自分を見下ろす瞳が笑う。
 こんな中途半端な気持ちで霞流さんと向かい合ったって、きっと認めさせることなんてできない。今までの女の人たちと同じように、自分もきっと適当に遇われて突き放されるだけだ。
 わかっている。霞流に挑戦状を叩きつけて以来、必死にそれを自分に自覚させようとしている。自覚させなければならない。もう後戻りはできないのだから。
 どうしてあんな事を言ってしまったのだろう。
 不安に駆られて後悔を口にしてしまいそうになる時もある。

「ハートのエースに変えてみせますっ!」

 自信なんて、まったく無かったのに。
 乱れそうになる胸元を押さえる。
 これじゃあ、聡や瑠駆真の方がよっぽど本気だ。
 好きだと告げ、強引に押し倒し、ライバルよりも勝ろうと足掻く。
 迷惑だとは思いながら、美鶴は言いようのない胸苦しさに襲われる。
 自分は、あそこまで本気で霞流慎二を想っているのだろうか? 聡や瑠駆真は、怖くはないのだろうか? 自分に振られて惨めな思いをするかもしれないなどといった恐怖は、二人には無いのだろうか?
 受け入れられないと言われても、それでも情熱的に迫ってくる。
 本当に、私の事が好きなんだ。
 今更ながら思い知らされる。ありがたいという思いは無い。ただ、羨ましいと思う。
 私が霞流さんを想うよりも、ずっとずっと強く想ってくれている。その情熱の前では、その直向(ひたむき)の前では、その一途の前では、自分の恋など浅はかで薄っぺらなモノにしか思えない。
 だから、口に出して告げる事ができない。自分の恋心に、自信が無いのだ。
 なんて情けない。なんて自分は中途半端なんだ。人を好きになる事も、逆に人から離れる事もできずにいる。
 このままでは、自分はどこへ行く事もできず、また同じところへ戻ってきてしまう。どこかへ進まなければ。
 グッと唇を噛み、駆ける足にさらなる力を入れようとして、ハッと立ち止まった。
「ここは?」
 瑠駆真の部屋へ来たのは今日が初めて。場所がどこかなど、美鶴は知らない。だから、その周辺の地理に知識もない。
 自分は今、どこを走っているのだろうか? と、とりあえず駅でも近くにないだろうか?
 駅名でも確認できれば、大まかな場所でもわかる。
 だがその先は?
 場所がわかっても、その次に、自分はどうすればよいのだろう? 自分はこれからどこへ行くのか?
 ふと、視線を感じて振り返る。女性がサッと視線を外して足早に去る。
 明らかに自分を見ていたはずだが。
 銀行のATMコーナー。ガラス戸に映る己の姿を見つけ、そうして納得する。
 本来なら、今は授業を受けている時間だ。唐渓の制服はこの辺りでは有名。
 ヤバいな。
 だからと言って、咄嗟に妙策も思いつかない。
 どこへ行こうか? 駅舎へ? だが鍵を持っていない。じゃあ自分のマンションへ戻る? 聡が居るかもしれない。だったらお母さんの店にでも行ってみようか? だが、この時間に開いている確立は少ない。なにより、母に頼るというのも癪だ。だいたい、今の美鶴は定期を持っていない。財布も無い。携帯も無い。
 どうしよう?
 焦りながらも途方に暮れる。そんな肩を、小さな掌がゆっくりと叩いた。
 できるだけ遠慮がちにだったとは思う。だがあまりに思いがけない出来事だった為、飛び上がるかのように振り返る。
 瑠駆真でも追いかけてきたのか?
 そんな恐怖にも似た感情で振り返る相手の態度に、女性は目を丸くして口を開いた。
「あ、ごめんなさい。驚かせてしまいましたか?」
 紙袋を抱えて、もう片手を宙に漂わせたまま首を傾げる。
「申し訳ありません。そんなつもりはなかったのですけれど」
「あ、あなたは」
 品の良い仕草で本当に申し訳なさそうな表情をしてみせる相手の顔に、美鶴の声は上擦ってしまった。
「あなたは、幸田(こうだ)さん」
 名を呼ばれ、霞流家の使用人である幸田(あかね)は、少し嬉しそうに微笑んだ。





 床に放り投げられた携帯を丁寧にテーブルの上へ置く。そうしてメリエムはため息をついた。
「ミツルは、見つからなかったわ」
 その言葉に無言で立ち上がる瑠駆真。その肩を強引に押さえつける。
「あなたが行っても、どうにもならない」
「わからないだろっ」
「わかるわ。あなたが見つけても、所詮ミツルに逃げられるのがオチよ」







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